ブラインドからのぞき見た世の中 : February 15, 2013 @ 16:23
ブラインドからのぞき見た世の中 VOL.82『ヒトの安全性』
いまだにメディアを賑わしている大阪市立高校の体罰事件。
コレ、いったいナニが、こんなに引きずっているんでしょうかね。
責任問題?体罰したという事実?
どちらにせよ、いちばんの問題はそれを苦に自殺をしてしまった被害者がいるというコトなんですよ。
つまり、”いじめ”の問題といっしょ。
個人的には、体罰は反対ではないんです。
ワタクシ、性善説と性悪説だったら、性悪説の方。。。
というか、「ヒトはもともと”善”でも”悪”でもなく、”無”」という、
勝手につくった『性”無”説』を信じているんですよ。
だから、「”善”か?”悪”か?」ということになるのならば、どちらかというと”悪”寄りなのかも。
だって、”無”って、意識的なところでいうと、じつは悪かったりするじゃないですか。
たとえば、無意識に悪事をはたらいたヒトよりも、意識して悪事をはたらいているヒトの方が救いやすい。
自分が悪いことをやっているというコトを理解、認識しているワケですからね。
“無”の方が、かなり厄介です。
“無”から、”善”か”悪”にする。
それ教えるための教育的体罰であれば、
個人的にはなんら問題はないような気がしています。
ただ、やり過ぎはよくない。
やり過ぎの度合いってすごく難しいですし、
それに、やり過ぎの体罰って、”いじめ”になってしまうんですよね。
強いモノが弱いモノを弄ぶ、弱肉強食のナレのはて、”いじめ”。
体罰は、”いじめ”であってはならないのです。
ストリートでの”いじめ”であれば、どちらかが相手より強いことを見せつければ、
立場逆転もありえるワケで、それさえできれば”いじめ”はなくなるんですけれどね。
しかし、教育の現場においては、すごく特殊な状況。
体罰をうけている生徒側は反撃をできない、許されてないワケですよ。
反撃をすることで、その後成績とか、進路だったりとか、
自分の人生にいろいろな影響が出てきますからね。
そういった意味では、体罰はひとつの職権乱用じゃないですけれど、
パワハラになってしまっているような気がします。
まさに弱肉教職ですな。
もちろん、そういう職権が必要な場合もあります。
教育は、上下関係がないとなりたちませんから。
たとえば、教師も職権を自ら放棄できる状態をつくれれば、
生徒もやり返していいというコトにしたら、
もしかしたらこういったパワハラ体罰はなくなるのかもですね。
もちろん、それをキチンと判断する場(先生と生徒二人キリではなく、かならず誰か2人以上のいるところ)もつくる必要もあります。
ただ、ヒトを管理しているのはヒトであり、そのヒトを管理するのもまたヒトなワケですから。
ドコの管理のヒトがあっていて、ドコのヒトが間違っているのかなんて、疑いだせばキリがありません。
とどのつまり、結局は、教師や、体罰をするオトナ側の人間性次第というトコロにきてしまうんですけれどね。。。
“愛”があるか、ないか。。。
やはり一筋縄ではいかない問題ですよ。
みなさんは、体罰に関して、どのようにお考えですか?
モアリズム「うちに帰ろう」
旅路 良
This entry was posted on Friday, February 15th, 2013 at 16:23 and is filed under ブラインドからのぞき見た世の中. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. Responses are currently closed, but you can trackback from your own site.












