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Editor's Eye : July 30, 2015 @ 19:54

『絶歌』に触れる



今回は、『神戸連続児童殺傷事件』の犯人である”元少年A”こと「酒鬼薔薇聖斗」による手記『絶歌』、この本の書評、、、というか、感想を。


すでにニッポン各地で「踏絵」的存在というか、
某『ア○マの詩』的なあつかいになりはじめている、この本。

まあ、”クサいものにはフタ”カルチャーなので仕方がないけれどね。


まず言いたいのは、今回は、この本を「読んでほしい」とか、
この本を「社会的意味をなすモノの一部にしたい」とかでもなく、
あくまでもコレを読んで単におもったコトを、
自分のまわりのヒトに伝えるのがいいのかなと。

つまり、オススメをしているワケではないというコトを理解していただきたい。


さまざまなハモンをよんでいる本だけに、
基本的には中立性をたもちながら評してはいるつもり。

だけど、ナニ分、ワタクシめが偏ったかんがえの人間なモノで、
トコドロコロ感情的な文章になってしまっている部分があるコト、
そして、ネタバレ的な部分はおゆるしねがいたい。


さて、とりあえず読んでみて、まず最初に感じたのは、
前半と後半で文章的な表現がまったくちがうというコト。


とにかく、違和感があるのは、事件前の自身の行動や心情から、事件、逮捕、
そしてその後の入院にいたるまでが書かれている前半。

コレが、ビックリするぐらい、不思議と、
まったくもって自身のコトを書いているという感じがしない。

超純文学チック?な表現がおおすぎというのもその要因のひとつかもしれないけれど、
まるでフィクションのサスペンス作品を読んでいるような感覚。

本書内でも書かれているけれど、自身が少年院時代に本を読みあさっていて、
好きな文学者に”村上春樹”と”三島由紀夫”をピックアップしていたから、
そのふたりの影響は受けているのはたしか。

とはいえ、『ノルウェイの森』的な情景描写の表現は、ミョーに気になる。

「当時のコトは、ボンヤリとしていて」というコトなのかもしれないけれど、
ソレにしてもチョットなーとおもえる、過剰なアジつけ具合がとてもハナにつく、、、
といっては言いすぎ?かな。

とにかくこの不協和音というか、違和感は、表現方法の云々よりも、
もしかしたら本人の意識的なモンダイなのカモ。


そして、それとはうってかわっていたって手記的で、現実的な表現の、
退院後のここ数年、最近のA自身のコトについて書かれている後半部分。

コチラは現状の”悩み”へとつながる、コレまでの人間関係やら、
やってきた仕事の内容やらが詳細に書かれている、
若干、報告書チックな内容だ。

文面からは、事件を犯したことに関して、おそらくかなり後悔しているもよう。

反省ではなく、後悔。

「どう償っていけばいいのかわからない」というコトとともに、
社会とのつながり方をもわからなくなってきているように感じた後編。


そして、被害者家族に、いや社会へむけた、
今回の出版のイイワケ的な、反省文のような”あとがき”。


とりあえず、カレはモンスターでもナンでもなく、
ごく人間的な”弱さ”があり、
精神的に成熟しきれてない、意外と普通の”人間”だった、
というのが、読んで感じたコト。

ソレがこの本に対するワタクシの感想だ。


欲をいえば、この前半部分、、、純文学チックな表現の部分はいらなかったかなー。

キビシい言い方をすれば、むしろ前半全部いらないカモ。

ココはなぜ、編集部は手をいれなかったのだろう。

アドバイスするべき点だったとおもうんだけれどね。

手記というよりは、”安い”文学作品に成り下がってしまっているのが残念。


ちなみに、本書でもっともココロに引っかかったカレの”コトバ”は、
後半部分に出てくる、とあるテレビ番組内において10代の男の子から、
番組出演者への「どうしてヒトを殺してはいかないの?」という問いに対する、
カレの”いま”の答え。

「最終的に、自身が苦しむことになるからやらない方がいい」

コレ、個人的にはかなり的確な”答え”なのかなーと。

もちろん法律とか、そういう部分もあって、よくないコトだとはわかっているけれど、
それって答えのサポートをしてくれるモノでしかなくて、
じつは「ヒトを殺してはいけない理由」の”答え”そのものではないのね。

それに、「自分自身が苦しむから」という言いまわしに、
まるで戦争経験者の体験談的なモノとおなじ感覚をおぼえたのもたしか。

つまり、戦争で人を殺そうが、事件で人を殺そうが、
自分の精神部分にうける影響はおおきいというコトなんだろうね。

この”答え”は、普通に生きているヒトにはなかなか出せないんじゃないかな。





さまざまなメディアでさわがれている、
狂気的な妄想だの、性的サディズム的な部分についてだけど、
コレって、心理の深層部分的には、ダレでももっているハズなんだよね。

かく言うワタクシにだって、そういう妄想的なモノは持っているワケで、
A自身も社会もソコの”せい”にしすぎかなー、というのが、
つよく感じた印象のひとつ。


ソレらの妄想を、「現実にしてもイイモノ」と、
「現実してはイケナイモノ」の区別のつけ方が、
カレとワタクシとのちがいなんだとおもう。

あと、「プラスの妄想」ばかりで「マイナスの妄想」ができない、
つまり「先を読むチカラ」の欠如というのもあるカモ。


区別のつけ方のちがいだったり、「先を読むチカラ」の欠如の話でいうと、
2014年に佐世保でおきた『女子高生殺害事件」の犯人の女子高生もそうだね。

そして、2015年に愛知県名古屋市でおきた、『老女殺人事件」の犯人である、
名古屋大学1年の女子学生も同様。

『老女殺人事件」の方は、犯人の彼女についていろいろとしらべてみると、
殺人者を崇拝する願望があり、そのなかに元少年Aもはいっていたのね。

彼女は結局、元少年Aのコピーキャットと化してしまったのか。。。

もしかしたら、この本がもうちょっとやく出版されていれば、
あの事件はおきなかったのカモ。

なぜなら、この本は、彼女の神である元少年Aが、「人間化宣言」した本でもあるから。

もうおそいケド。


世の中、この本に対するさまざまな憶測や評価が飛びかっているけれど、
現状においては、社会的にこの本の出版に意味があったのかというコトに関しては、
「分からない」といのうが、ワタクシのいまのかんがえ。

ただ、今回の出版に関しては、残念ながらいい出版とは言えないかな。

もちろん、「表現の自由」としての出版は、殺人者である(あった?)カレにも
例外なくあるワケで、ナンピトたりとソレを阻害するべきではないワケで、
コレに対してちょっとした不買い運動的な”社会的制裁の動き”があったりするのは、
ナンともどうなのかなーと。

買う、買わないは当人の自由なワケだから。

とはおもうけれど、今回の出版の方法に関しては、個人的には異議あり。

やはり被害者家族とキチンとした段階を踏んでから、
本名で出版するのがよかったのではないかと、、、
まあ、本名で出版すると、加害者側の家族にまた別の被害がおよんでしまうという、
「モロハの刃」効果を生んでしまうワケだけど。

そのくらいの覚悟があったのか、なかったのか。。。

“あとがき”を読んでいるかぎりは「どんな批判も受ける」と書いてあるので、
ありそうなんだけれど、
じっさいにやったコトは「覚悟がなかった」ように感じてならない。


“あとがき”どおりなのであれば、本人はかなり後悔している。

後悔はしているが、どうしていいか分からなくなって、
“最終的に”とにかく自分の思いを「書く」という行為でぶちまけてしまった。

しかも、書いたものを出版までしてしまった。

まだまだやれるコトは、ほかにもたくさんあったハズなので、
本当はコレは”最終手段”ではないのだけれど、
本人的には”最終的な手段”になってしまっているのが、とても残念。


とにかく、「ヒトリで生きていける!」というつよい”思いこみ”から、
ストイックになりすぎて、パンクしてしまった状態、というコトかな。

友人がいて、ちょっとでも相談できる環境があれば、
状況はちがったのだとおもうけれどね。

もともと極度のコミュニケーション下手にくわえ、
この事件の犯人であるコトを知られたくない、または隠したいがために、
自ら、まわりの人間とのコミュニケーションを拒んでしまっていたから、
相談できるヒト、というか”友人”をみつけられていない現状もあったのかもしれない。

しかし、それは自分で選択したコトのハズ。

自分で望んでコミュニケーションを断っておいて、
そのたまったハケ口を書くコトで放出してしまった。

それがこの本、、、といっても過言ではないかな。


再犯ではないけれど、ただやりたいコトをやってしまった結果、
被害者家族をまたもや傷つけてしまい、再犯にちかいコトをしてしまったというのが、
今回の出版の”現状”なのだとおもう。

少年時代につづき、またもや「先を読むチカラ」の欠如を発揮しまった、カレ。


今回の件で浮き彫りになった、というかもともと問題視されていたけれど、
やっぱり!となってしまったのは、
犯罪者における、その後の社会的ケアの部分がむずかしいというコト。

とくに少年犯罪における、社会復帰後の現実はキビシい。

キビシいがゆえに、相談もできず、
再犯を犯してしまう例があとをたたないのも現状なワケで。

ナニか、ココロのケア、、、カウンセリングのようなコトが出来るような場所を設けるのも、
今後の課題なのでは。


もし、カレに気軽に話せるような場所、つまり、ココロのケアができる場所があれば、
このような「出版する」という行為におよばなかったのカモ。

この本がキッカケで、そういう社会的ケアが生まれ、再犯率が減ったのなら、
この本の出版には社会的意味があったのだ、というコトになるとおもうけれどね。


ワレワレは、この本について、、、内容ではなく、出版の方法だったり、
少年犯罪における社会的なモンダイだったりの、
いわゆる「背景」について、
もっと語って、議論していくコトが必要なんだとおもう。

そうするコトで、やっとこの本が出た”意義”になるのかな。




編集長
カネコヒデシ



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