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Interview : October 18, 2018 @ 17:20

その男、カルチャーにつき(その1)──アップリンク代表 “浅井 隆”インタビュー



渋谷のカルチャー発信基地的映画館「アップリンク渋谷」が、2018年12月に「アップリンク吉祥寺」をオープンさせる。


この「アップリンク」という会社を、31年間もの年月ひっぱりつづけているのが、代表の”浅井 隆”そのヒトだ。

氏は、2006年に渋谷区宇田川町に映画館、ギャラリー、カフェレストランをひとつの場所にあつめた総合施設「アップリンク渋谷」をオープン。
そして、2011年にデジタルカルチャーマガジン『webDICE』、2016 年には動画配信サービス『アップリンク・クラウド』、さらには2018年にセレクト型クラウドファンディングサイト『PLAN GO』をスタートさせるなど、いまもなお勢力的に”メディア”をつくりつづけている。


そんなカレが、こんどは吉祥寺という街を舞台に、あたらしい”メディア”を立ち上げようとしているのだ。
とにかく、底しれぬパワーの持ち主としかいいようがナイ。


“浅井 隆”とは、いったいどんな人間なのか??


今回は、インディペンデント・カルチャーを発信しつづけている”浅井 隆”氏に、生い立ちから人生の目標まで、さまざまなコトを訊いてみた。






─大阪ご出身とのコトでしたが、どんな生い立ちだったのでしょうか?


大阪で生まれて、その後、徳島にいたんだよね。
小学生のときは滋賀県の守山市にいて、
小学校高学年で父親の仕事の関係で大阪に引っ越して、
そこから高校までずっと大阪です。


─どのような少年時代を過ごされたのでしょうか?


父親が繊維関係の会社で、ボクが小学校に入る前に3回転勤したんですよ。
”大友克洋”さんのマンガで
コンクリートの団地がでてくる『童夢』ってのがあるんだけど、
アレはわりと共感するんだよね。
徳島ではコンクリートではない社宅で、
守山のときはコンクリートの社宅でアパート、
大阪は普通の住宅になったので、
徳島と守山のときは社宅という経験が子どものときはあったね。


─そうなんですね。


工場に勤めているヒトの家族だけが住んでいた社宅で、
みんな転勤族だったから、
いわゆる古くからあるようなその町で生まれ育って、おじいちゃんがいて、
といった町の文化や町のヒトたちとはちがった風に見られていた記憶はあるかな。


─浅井さんのいわゆる地元感みたいな場所って、、、ドコにありますか?
やはり大阪でしょうか?



うーん、、、先日、父が亡くなって、妹と母親との家族3人で、
むかし住んでいた守山の社宅を車で見に行ったんだけど、
自分の記憶と想像とはまったく変わっていて。。。

守山の思い出は、当時琵琶湖大橋ができて、
マラソン大会で”アベベ”が裸足で走るのを見たとかある。
大阪は“母が住んでいる実家”という感覚で
自分の地元という感じではないんだよね。
だから、地元といえばやっぱり、いちばん長くいる渋谷かな。


──やっぱりそうですか(笑)。
さて、高校卒業後、上京して、”寺山修司”さんの「天井桟敷」に参加されたワケですが、
いつぐらいから舞台に関心を持たれたのでしょう?


大阪で高校生のときだね。
寺山さんの作品でいえば『書を捨てよ、町へ出よう』の本を出した時代。
先に本で”寺山修司”を知っていて、彼が劇団をやっていると。
そして、当時、サンケイホールでやっていた演劇『邪宗門』を観に行って、
「わお!スゴイ!!」って。

70年代当時は、『ウッドストック』とか、海外のロック・フェスティバルの時代で、
”ディープ・パープル”とか、”グランド・ファンク・レイルロード”とか、
日本に外国のミュージシャンがいっぱいやって来てて、
彼らのライブを観に行ってたよ。
あとは、京都に”ジョー山中”の”フラワー・トラベリン・バンド”や
”金子マリ”を観に行ったり。。。

時代の流れでそういうライブを観ていたコトもあって、
自分のなかで「天井桟敷」の公演は、
いわゆる普通のヒトが考える演劇ではなく、
かなりロックコンサートに近かったかな。


─なるほど。


『邪宗門』では、”J・A・シーザー”の音楽がガンガン鳴っているし、
スモークが焚かれていたり、舞台が壊されたり、、、
とにかくスゴいアジテーションなワケ。
それこそ”劇場は町にある”で終わるような演劇だったので、
「スゴい!」とおもったね。

当時、バンドごときをやっていたけれど、
プレーヤーとして一人前になるのは遠いなと(笑)。
だったら演劇でロックっぽいコトができるのは「天井桟敷」かなって。

それで、上京して半年後くらいに、
こんどは法政大学の学生会館のホールでやっていた
『盲人書簡』という演劇に行ったら、
それが非常灯も消す完全暗転のなかで俳優がマッチを擦って、
火がついている時間だけセリフを話すという、、、
マッチだけが照明の演劇をやっていて。
とにかくオモシロかった!

ちょうどそのときにスタッフの募集をしていたので、
入団試験を受けて入ったんです。


─それで参加するコトになったんですね!


そう!
でも、俳優をやりたかったワケではなく、仕掛ける側。
舞台裏のスタッフをやりたかった。
最終的に、入って1年して舞台監督だった先輩が辞めたので、
自分が舞台監督になりました。


─「天井桟敷」には、何年くらいいらっしゃったのでしょうか?


約10年です。


─例えば、「このときのこの公演はスゴかった!」みたいな公演はありますか?


1975年、「天井桟敷」に入団して2年目くらいのとき。
『疫病流行記』の海外公演があって、
東京では初演が「アテネ・フランセ文化センター」で、
その後、渋谷の「エピキュラス」でやった公演。
それをアムステルダムの「メクリ・シアター」にもっていくコトになったんだけれど。
まだ入団したばかりだったからお金はなかった。
でも、渡航費を出せば連れてってくれると。
それで、親から借りて行ったのが、人生ではじめての海外。

当時、円が固定から変動に変わって、360円から300円くらいだったかな?
空港も成田がなく、羽田しかなかった時代。
以降、何度も海外公演をやったけど、
さすがに舞台監督なので旅費は組んでもらっていたけどね(笑)。


─ちなみに、当時の海外での反応ってどんな感じだったのでしょうか?


アムステルダムって、
いまもだけれど、とくに当時は世界中からのカルチャーの中心地だったのね。
一部英語はつかうけれど、基本的にセリフは日本語。
でも、非常にビジュアライズされたパフォーマンスだったし、
実験的なものだったから、
逆に日本より素直に受け入れてくれたとおもう。
だって、海外で”寺山修司”という名前は知られているワケではないから、
その分、作品の内容そのもので評価してくれるよね。
海外はそういう気がする。


─それはボクも多々感じている部分です!
さて、「天井桟敷」に10年いらっしゃって、
それから映画の世界へとすすまれたワケですが。。。


“寺山修司”は劇団の演出家であったけれども、
もちろんエッセイも書いたり、いろんな執筆活動もあって、
そのなかで「天井桟敷」の俳優とかスタッフをうまくつかって、
映画もつくっていたんだよ。


─ええ。


「ATG(日本アート・シアター・ギルド)」で3作品つくっていて、
ボクが入団したときには『田園に死す』。
その前が『書を捨てよ町へ出よう』。
最後は、(ガブリエル・)ガルシア=マルケス”の小説『100年の孤独』に
インスパイアされた、沖縄で撮った『さらば箱舟』。
あと、香港で撮った『上海異人娼館』とか、
『草迷宮』は四国の方だったかな。
いわゆる実験映画を「人力飛行機舎」という別名儀でつくってたんだよ。


─そうだったんですか。


いま言った映画はスタッフで関わっていたし、
それに実験映画の上映は自分たちのアトリエでやっていたのね。
映画は16mmフィルムで撮って、劇団にあった16mmの映写機で上映してたんだよ。
だから、映画がもうひとつの”柱”、という言い方は変だけれど、
遠くはなかった。
むしろ、映画をつくる、制作の現場からいたし、
上映も自分たちでやってたワケ。
「アップリンク」をはじめる前から、
「天井桟敷」での経験のなかに、
演劇とは別にもうひとつ映画の経験がずっとあったんだよね。


─その経験があって、映画配給という仕事をはじめられたんですね。


寺山さんが亡くなって、劇団が解散しちゃったので、
「さて、どうするか?」って。
自分ができるコトを考えたときに、
ひょっとしたら映画の配給とか上映はできるかなと。

それで最初は、
”デレク・ジャーマン”の『エンジェリック・カンヴァセーション』を輸入したんだけど、
「プリントをどうしようか?」って。
そこで吉祥寺の「バウスシアター」がいいのかな?と考えたんだよ。

当時は映画だけではなく、ライブもやっていたし、演劇もやっていたし、
多目的ホールとして、オモシロそうなコトをやっている場所だったから。

それに当時、”デレク・ジャーマン”は、
イギリスのバンド”ザ・スミス”の
「ザ・クイーン・イズ・デッド」のミュージック・ビデオを撮ったあたりで、
ちょっと話題になっていて、その彼の最新作だし、
「実験的な映画なんだけれど、やろうよ!」って話で。
けっこうみんな観に来てくれたよね。


─では、そこから映画の仕事がスタートしたというコト?


そこで失敗して、お金がスッカラカンだったらアウトだったけれど(笑)。
次のことができるくらいのお金は回収できたから。

それで次に、”デレク・ジャーマン”の短編集を、
渋谷パルコパート3の多目的ホール「スペースパート3」でやったんだよね。
それも成功したので、結果的にいままでつづけて来られている感じです。


─今年で何年ですか?


会社をつくって31年だね。


─ナーント!スゴいですね〜!!




>>>(その2につづく)
>>>(その3につづく)







クラウドファンディングプロジェクト情報!

2018年9月5日-2018年10月31日
映画館「アップリンク吉祥寺」オープン記念
クラウドファンディングプロジェクト






>>>コチラをチェック!!!

・プラットフォーム:クラウドファンディングサービス「PLAN GO」
http://plango.uplink.co.jp/project/s/project_id/74



□プロフィール

・浅井 隆(あさい・たかし)





アップリンク代表/未来の映画館プロデューサー。
1987年、有限会社アップリンクを設立。
デレク・ジャーマン監督作品をはじめ、国内外の多様な価値観を持った映画を多数配給。
2006年には渋谷区宇田川町に映画館、ギャラリー、カフェレストランを一か所にあつめた総合施設「アップリンク渋谷」をオープン。2011年にデジタルカルチャーマガジン『webDICE』、2016年には動画配信サービス『アップリンク・クラウド』をスタートし、映画を中心としたさまざまなインディペンデント・カ ルチャーを発信しつづけている。

「アップリンク」オフィシャルサイト:http://www.uplink.co.jp/


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